ギャンブル依存症になった僕が借金を返すために中東に赴任した時の話【体験談】

学生時代にギャンブルにはまり、「親切な人」からお金を借ります。

ところがその人の正体は、消費者金融の手先だったのです。

借金返済のため、僕は中東の危険な地域へ赴任することになりました。

体験者の情報

氏名:田頭 弘之
年齢:51歳
借入時期:昭和55年2月~昭和59年7月
借入総額:150万円
借入の理由:非合法賭博
会社名(借入先):プロミス、他多数

ギャンブルに染まるきっかけ

そもそもの始まりは、生活費と学費のためにアルバイトを始めたことです。僕は当時、専門学校に通っていました。

ある時、同じ寮の友人が、割のいいアルバイトがあると僕に紹介してくれたのです。

学校が休みの日にその喫茶店を見学に行くと、すぐ採用となってしまいました。

しかし、実はそこは非合法の賭博場だったのです

その賭博場は、外から見れば普通の喫茶店にしか見えません。

ところが一歩中に入ると、本格的なスロットマシーンが10数台とポーカーゲームマシンが7、8台置いてあります。

見学に行った日は昼間だったこともあり、お客さんはそう多くありませんでした。24時間営業のこのお店は、昼と夜では客数も客層も様変わりするのです。

私のいた宮城県には、公営のギャンブル場がありません。ギャンブル好きな人たちの楽しみはせいぜいのパチンコくらいです。

しかし実際には数十軒もの非合法の賭博場が、身を隠すどころか大通りに堂々と軒を連ねていました。

本当にギャンブルが好きな人は、非合法と知りながらみんなそういう所へ行きます。なぜなら、賭博場のレートが驚くほど高かったからです。

私の仕事は、一万円札を千円札に両替することと、出来上がっているカレーライスをお客さんに持って行くことぐらいでしたが、もう一つ重要な役目がありました。

「抜き」とか「壊し」とかいう手口があって、ゲーム機からごっそりお金を盗んだり、ゲームの出目を変えたりする人たちがいます。

また、ゲーム機の内部に侵入できるマスターキーを持ってくる人もいるのです。こういう人たちを見つけたら、お店に通報するのも、僕の仕事でした。

こうした仕事をするうちに、僕は賭博街の環境に染まっていきました。学校にも行かずアルバイト三昧で、月に30万円を超える給料をもらうようになります。

しかし、貯金が増えることはありません。
実は僕自身もギャンブルに取りつかれてしまったからです。

僕の働く店にあったポーカーゲーム機というのは、1回のゲームにつき1点100円です。でも実際には、100円でやってるお客さんなんていません。

ほとんどのお客さんは上限の10点(千円分)を1回のゲームにつぎ込みます。

そしてポーカーの役柄が揃って払い戻しになった時、払戻金が2倍になる「ダブルアップ・チャンス」に挑むのです。

これは画面に出てくる数字の大小を当てれば、払戻金の2~5千円が、2倍になるというものです。失敗すれば払戻金は0円になりますが、最高50万円まで続けることができます。

そして、誰もがそのスリルが楽しいため、最高金額まで挑んでしまうのです。

このダブルアップ・チャンスが成功し、払戻金が数万円になった時、スリルは最高潮に達します。

あと3~4回成功すれば最高金額になるという時が、最も興奮している時です。途中で一息入れる人、何時間も迷う人などいろんな人がいます。

僕は、お客さんで最高の払戻金まで辿り着いた人を何人も見てきました。

そして、そのカラクリも知っています。それはゲーム機ごとに設定が違うのです。

大体5台に1台くらいの割合で、最高払戻設定をしていて、この台に座ったお客さんは、一日の収支がプラス100万円くらいになるようになっていました。

他の台は、必ずマイナスになります。

僕は、自分の店ではどの台が当たり台なのかを知っていました。だから、従業員は自分のお店ではゲームをさせてもらえません。

他のお店の当たり台がどれなのかは分かりませんが、当たり台が存在するのは確かです。

こうして僕はいつもアルバイトが終わると、すぐ別の店にギャンブルをしに行っていました。

僕は、負けると分かっているギャンブルはしません。
勝つ可能性があるから徐々にはまっていったのです。

そして毎月給料をもらうと、すべてポーカーにつぎ込むようになっていったのです。

ギャンブルさえできれば、他のことは全部どうでもよくなっていました。

今思うと、当時の僕は「ギャンブル依存症」だったのでしょう。

それでも食べることには不自由しなかったのは、お店でお客さんに出す料理を、従業員も食べていいことになっていたからです。

しかしポーカーにはまってしまった僕の蓄えは、底を尽きました。

元々蓄えは200万円近くあったと思いますが、ギャンブルではそのぐらいあっという間に消えていくものです。

親切な金貸しが現れて、火に油が注がれた

僕の働いているお店の常連さんには、特殊な職業の人がたくさんいました。

他の店では、特定の職業の人は入店を断られる場合もありましたが、うちの店は、どんな人でも「来る者拒まず」です。

デパートの店員など普通の職業の人から、同業者である賭博業の人、さらに的屋さんまで、いろいろなお客さんがいました。

その中に、やけに僕に対して好意的な人がいました。
仮にアパッチさん(日本人です)と呼ぶことにします。

アパッチさんはポーカーゲームがしたくて我慢できない僕の気持ちを見透かして、たびたび1~2万円を貸してくれるようになったのです。

しかしその度に世間話を装い、僕の実家のことを聞き出そうとします。僕もつい、実家が持ち家であることや、土地を何ヘクタールも所有していることを、少し膨らませて話しました。

ただし実際は僕の地元はかなりの田舎で、家にも土地にもたいした価値はありません。

実は、アパッチさんは、店に遊びに来ていたのではなく、カモを探しに来ていたのです。

しかし、当時の僕は、その人に対して、すでに多額の借金を抱えていることに、気が付きませんでした。

ただの親切な人と思い込んで、ポーカーにはまり続け、借金を重ねていったのです。

そのうち、専門学校の卒業が近づいてきました。

今の時代では考えられませんが、当時は欠席しても出席扱いにしてくれたので、ギャンブルに明け暮れていても卒業することができたのです。

アパッチさんは、卒業を控えた僕に「これから、どうするつもりだ」と聞いてきました。おそらく、潮時と思ったのでしょう。

そう言われて、僕はようやく危機感を覚えました。
この時すでに借金の総額は100万円以上、利息は月に3万円を超えていたのです。

そして、親切な人の正体は、消費者金融の人間でした。僕は個人からお金を借りているとばかり思っていましたが、実際には消費者金融から借りていたのです。

年利は40%近かったと記憶しています。当時としては安い方です。ちょうど消費者金融が流行り出した時代で、世間ではまだ高利貸しとの区別があいまいでした。

また、限度額があったのか、別な仕掛けがあったのかは覚えていません。窓口が消費者金融だったということしか記憶にないのです。

借金を返すためだけに就職

当時、昭和56年ごろの一般的な初任給は、手取りで8万円くらいでした。

利息の3万円と家賃、光熱費を支払うだけで、生活できなくなってしまいます。
しかしこの時代は、やや下火になったとはいえ、まだバブルの頃でした。

ボーナスは、年に8ヶ月分は保証されていました。
少なくとも、年に20ヶ月分の給料がもらえることになり、僕の年収は手取りで160万円くらいになるのです。

しかしその中から、利息だけで40万円以上支払わなければなりません。また家賃と光熱費だけでも年間60万円くらいは必要です。

さらに当時の仙台では、車がないと生活できず、車のローンに30万円くらい必要になりました。車の維持費やガソリン代などもかかるし、手元に残るお金はほとんどありません。

僕は、こうしたやりくりを考えて、就職する時に悩みました。
今のアルバイト先で働くほうが、はるかに給料がいいのです。

しかしその頃、警察によるポーカーゲーム取り締まりが強化され始め、お店のママたちも廃業を考えているようでした。

こうして僕はバイトを辞めて就職することにし、年中出張に行ける会社を選びました。

そうすると食事と寝る所は保障されるので、生活費がかからず、さらに出張手当もつきます。

これなら何とか生きることだけは、できそうです。
でも借金は利息を返すだけで精一杯の状態でした

出張手当は1日1200円くらいですが、宿泊先を安い所にすればその分浮いたお金が手に入ります。また宿泊費は5千円くらい支給されました。

日当と宿泊費を概算請求して、会社から前受金をもらって出張します。

ここで余ったお金を少しずつ利息の返済に回していたのです。

この頃には、返済に追われる毎日でポーカーのことはすっかり忘れていました。

しかし、もっと大きな問題は元本の方でした。これは、全く返せる見込みがありません。

返済のために新たな借入れを増やす

何とか利息だけは遅延や遅滞をしないように頑張りましたが、就職した初年度に予想外のことがありました。

初年度の夏のボーナスはほとんどないということを、初めて知ったのです。

僕はこれまで、友人たちからもたくさん借金していました。夏にボーナスが出たらそれで返すつもりだったのに、それができなくなってしまいます。

友人たちも裕福なわけではありません。
困った僕は、キャッシング付きのカードを申し込みました。

1週間くらいでカードができ、そのカードで友人たちにお金を返しました。金額は15~20万円くらいだったと思います。しかし、そのカードにも利息が付いてきます。

当時の年利30~40%は、妥当な相場でした(少なくとも僕はそう思っていました)。

しかし1枚作ると歯止めが利かなくなり、2枚、3枚と新しいカードが増えていきます。

利息を支払うために新しいカードを増やしました

そして、新しいカードの利息を支払うために、また他社でカードを作るという悪循環です。

僕は二部上場会社の持ち株子会社に勤めていたので、申請すればカード会社の審査は、ほとんど全部通りました。

そしてそんな僕に追い打ちをかけるように、冬の間出張がなくなってしまいました。大雪の季節は内勤になるのです。

そうなると当てにしていた出張手当が出なくなり、食費も出してもらえないので、自分で払わなければなりません。

しかも元本返済の問題もあり、このままでは完済の目処が立ちませんでした。

1つ良かったことは、この時代は携帯電話がまだ普及していなかったことです。

会社や宿泊先に消費者金融から「お支払いの期日は○月○日ですよ」と毎月電話が来るものですが、今だったらさらに携帯にもかかってきて、精神的に追い詰められていたでしょう。

運命のプロジェクトが僕を救った

2~3年が経ち、借金は200万円近くになっていました。

このままでは、いつか破滅が訪れます。
そんな時、中東で大きなプロジェクトが始まるという噂を聞きました。

僕の会社の親会社が、現地へ行く人を募集しているようです。それを聞いて僕の頭をよぎったのは「借金から逃げるために、海外へ身を隠す」ということでした。

しかしよく話を聞いてみると、堂々と中東へ行っても、借金を完済することができそうです。

そのプロジェクトの報酬は、日本の基本給+ボーナスはそっくりそのまま通帳に残り、さらに海外に1年以上滞在する社員は、日本の税金を支払わなくてもいいというのです。

さらに中東での生活は、住居と3食つきで、日当が13$くらいもらえます。

また、年に一度の基本給の昇給が月1万を下ることはありません。滞在の初年度から、200万を超えるお金が日本の通帳に払い込まれるのです。

僕は立候補し、すぐに赴任が決まりました。
当時の中東は非常に危険で、めったに立候補する人がいなかったからです。

中東は危険に違いありませんが、僕にとっては借金に追われる日本の方が地獄でした。

しかし中東に行く前に、1つ問題が残っていました。

利息の支払いを、店頭まで行って支払わなければならないカード会社があったのです。中東から毎月、日本のカード会社に支払いに行くことはできません。

そこで僕は、ある友人に通帳と印鑑を預け、店頭での支払いを代わりに頼もうと思いました。するとその友人が「勤め先からお金を借りてあげようか?」と言います。

友人の勤務先は組合活動が強く、目的を限定しない融資を200万円までならできるそうなのです。

彼は僕に必要なお金を一括で借りてくれて、その返済は僕の預けた通帳から必要な分を引き落すことになりました。

こうして僕の借金は、僕が中東にいる5年の間に、僕の給料から引き落とされる形でいつの間にか完済されていました。そして実は中東にいる間、借金のことは全く忘れていたのです。

結局、海外ではかなり遊んだつもりだったのですが、帰国する時には500万円を超えるお金が通帳に残っていました。

海外に逃亡しようと思うくらいに追い詰められていた自分が、海外赴任で救われたのでした。

あの時契約したカード会社は、どこも当時と名前が変わってしまっています。名前を言われたら思い出すかもしれませんが、思い出したくもありません。

もう30年も前のことですが、今でも笑って話せる思い出ではなく、自分にとっては暗い過去です。

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